第1回

2016/02/22掲載

1.タキイ入社前夜

昭和44年夏、農業系学部の4回生であった私は、就職活動の真っただ中にありました。東京の青果会社の面接の帰り、東京駅の構内は、アポロ宇宙船の月面着陸成功を伝える街頭テレビに群衆が群がり食い入るように見つめていたことを覚えています。GNPが世界第2位となり好景気に沸く日本は、今では考えられない売り手市場でありました。

 就職試験は全社合格。安心して夏期休暇を故郷鳥取県の実家で過ごしていましたら、父親に呼ばれ、「お前は農学部を卒業するのだから、京都にあるタキイ種苗という会社を受験してきなさい」とおじさん二人がいってきているというのです。実は、私のおじ二人というのは、西山市三と川上幸治郎と申しまして、西山先生が京大教授で植物遺伝学、川上先生は名城大学学長で馬鈴薯の栽培法で知られた農学の研究者でした。タキイ園芸専門学校では座学の講師を京大農学部から派遣いただいていたこともありましたので、恐らく西山先生あたりの紹介があったのだと思うのですが、話は付けてあるからと半ば強制的にタキイ本社で面接を受けるため京都に出かけることになりました。

さて、面接の待合室には、お盆過ぎの暑い日にもかかわらず、詰襟の学生服を着た二人がすでに先着して待っていました。二人は私が面接を受けることを聞いて、「君はタキイ農場の夏季研修で顔を見なかったけれど、どうしてここにいるのか?」と不思議そうに声をかけてきたのです。

当時タキイに研究職で入社する学生は、適性を見るためあらかじめタキイ研究農場で研修を受け、実践を経験済みというのです。こちらは研修に不参加で農場のことは全く知らない状況でした。何も知らないとは恐ろしいものだと後悔したのは入社後で、すでに後の祭りです。運命は紙一重と申しますが、もし面接前に研修を経験していれば、厳しい農場の作業に音を上げ面接を辞退していたかもしれません。あるいはそれを見越したおじ達の策略にはまったのではと今でも多少疑っています。
結局、研修を受けていないのにも関わらず面接は合格。今思い起こすとおじ達の推薦があってこその採用だと思いますが、おじの面子を潰すわけにもいかず、ほかを断ってタキイへ入社することにしました。これがその後45年間お世話になったタキイ生活の始まりです。
近年の社員の方が余程育種への高い志や夢をもって入社してきているのと比べれば、なんとも情けない経緯で研究農場の門をたたいたものです。

昭和43年開設間もなくの研究農場。右前方建屋が専門学校若葉寮
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