第2回

2016/07/20掲載

1.圃場で学んだ新人時代

交配実習を専攻生と競う

交配の実務実習は、先輩から教わります。交雑防止の消毒、ピンセットの使い方、蕾の切り方、除雄の方法などを指導されました。交配時期は2〜5月ですが、新人の私たちは、交配室でその間日々休みなく「ミツバチ」さながらの交配実習を続けました。

当時の一日を振り返ると、先ずは朝食前に花粉管の伸長を顕微鏡(検鏡)で判定する雌しべのプレパラートを作ります。それが済むとガラス温室の換気、交配室の潅水をこなし、圃場実習の準備を整えてから、専攻生たちと一緒に朝食を済ませ、朝礼に集合し、ラジオ体操、場長訓話の後、生徒たちと午前の実習に当たります。昼食は正味5分で済ませます。昼食後すぐに倉庫へ直行し専攻生と午後の実習準備にかかりますが、準備に昼休み時間のほぼ一杯かかったからです。昼礼後、私たちは検鏡結果に基づき不和合性遺伝子確認の交配、母本管理、誘引、潅水、交配袋おき、交配袋掛けと毎日夜遅くまで追いかけまわされていました。

交配実習風景(昭和51年)
交配実習風景(昭和51年)
BP作業(昭和58年)
BP実習(昭和58年)

交配実習はセルフ、クロス、BP(蕾受粉)と3種類ありますが、初年度は重要なセルフは任してもらえず、簡単なBP専任です。ここでも専攻生が休憩時間に必ずやってきて、何枝交配したか確認して行きました。交配実習といえどもスピードと交配数をライバルの専攻生と競っていました。2年目には、試験採種網室の管理が加わりますが、網室の中では、交雑防止のためゴムカッパ着用が義務付けされます。カッパによる蒸れと暑さに耐えながら先輩の指導で母本管理、支柱立て、誘引、ミツバチ管理、潅水、薬散をこなしていきます。これら実習を通じて植物の栄養生長、生殖生長を観察して採種の基礎を体得して行きました。

ところで、交配に使うミツバチは低温下では働きが悪く、先輩の指示で農場内に飛来する日本マルハナバチを捕獲して交配に利用するよう指令が下ります。このハチはミツバチと違って、ずんぐりしたフォルムで米軍の戦闘機グラマンを連想させることから、私は“グラマン”と名付けていました。

さて私は、このグラマンを捕獲するために寒冷紗で自作の昆虫網を製作し、飛来するグラマンを半日追いかけまわして何とか10匹捕まえたと喜んでいると、驚いたことに専攻生は50匹近くも捕獲しているではありませんか。実はその朝、専攻生から「福嶋さんはあちらで捕まえてください」と風の強い日陰の場所を勧められていたのですが、グラマンは日当たりのよい無風の陽だまりでホバリングする習性をもっていたのです。彼らはグラマンの生態をよく知っており、全く不向きな場所での捕獲を勧めていたのです。完全に出し抜かれた私は、先輩社員から半日遊んでいたとあらぬ疑いをかけられる羽目となり、まんまと彼らにしてやられました。こうした新人時代に専攻生たちと過ごしたエピソードには事欠きませんが、厳しい実習のなかにも牧歌的な楽しい実習もあったことも付け加えておきます。ちなみに採種用のハチは、ミツバチをはじめマルハナバチ、ツツハナバチなでを使用しますが、毎年、我が家のブルーベリーに訪花してくれる“グラマン”が今でも一番愛らしく、懐かしい気持ちで迎えています。

作業の段取りと農具準備

初夏を迎え、交配が一段落してようやく圃場へ出ることになりましたが、広い圃場と多数のハウス群、聞きなれない肥料・農薬・農具の数々、勝手のわからない作業の段取り、時間の配分などを先輩から教わるも一筋縄ではゆかず、依然、専攻生の行動を横眼でにらみながら、常に行動を共にしてそれらを体得して行きました。

夕方になれば翌日の作業予定を先輩に確認し、専攻生と必要な農具、肥料などをトラックに積んでおきますが、翌朝目が覚めたら外は大雨だったこともあり、そんな時は実習の大幅変更を余儀なくされました。こうした経験から農作業は、常に先を見通した準備が必要だと身を持って痛感させられました。農場ではしばしば天候に振り回されます。どのグループも天候に合わせて同じ実習に集中するので農具は常に不足し、グループが異なる同期のN君と相互に農具を融通しあい、待ったなしの実習を乗り切ったこともしばしば。同期・若手社員同士の友情に日々助けられました。農具と言えば、実習現場で先輩から大声であれこれ指示を受けますが、「カルトン、ネコ、カケヤ、オカプラ、バイス」等々のタキイ用語?連発に名前と農具が一致せず、1年間のアドバンテージがある専攻生たちに出し抜かれ、悔しい思いを重ねながら覚えて行きました。

現在は新人社員と専攻生との関係は、社員1年目でも先生は先生として接するよう指導していますが、当時の専攻生と新社員の作業への習熟格差は歴然で、専攻生の実力は素晴らしいものがあり、農場内では「専攻生は神様」でした。

圃場はぬかるみの戦場、通称ヴェトコン実習

さて、新人時代当時の研究農場は、広大な圃場すべてが滋賀県甲西町へ移転(昭和43年)した直後で整備の行き届いた畑とは言えず、社員と生徒にとっては手が付けられない難敵でした。例えば整地実習では土中から石が大量に出現し、大型トラクターの爪が1週間もたず、爪先が槍のようにまっすぐ尖って使えなくなります。ロータリー耕うん後は、夕方遅くまでトラクターの爪交換が必要で、この交換作業は大変な手間でした。また、石の多い粘質土壌はひと雨降ればたちまちぬかるみ、足は膝まで簡単に埋まってしまいゴム草履が地中深くに潜ります。足をひっこ抜くとゴム草履だけが取り残されて土の中。今度は土中に残った草履を両手で何度も引き上げますが、段々面倒になり最後はみんな裸足で実習していたものです。これがヴェトコン実習といわれた所以です。

さらに晴天になればなったで、畝面表土はレンガのように固くしまり、拳大の石が表面全体を覆ってしまいます。これらを除くために担架を持ち出しての石拾いと石出し実習が必要なありえない排水不良圃場でした。現在農場は雨の日にあらかじめブルーシートを圃場に掛けますが、これはハクサイの直播にどうしても必要だったため、この時代にはじめたのが最初です。当時は廃棄したハウスビニールを大事に利用していました。

担架による運搬風景(昭和56年)
担架による運搬風景(昭和56年)

若手社員の生甲斐となった馬ふん振り

現在はなくなった当時の実習で、忘れられない思い出が「馬ふん振り」でした。近隣の栗東競馬場から土壌改良のため、大型10t車で搬入した生馬ふんを反当たり10t、担架とホークを使って人力で撒布する実習です。秋作に備えて夏の30℃を超える炎天下、悪臭と発酵による熱でもうもうと白い湯気が立ち昇る高さ2mの馬ふんの山を、ホークで切り崩し担架に乗せる組と、その担架を全速で走って運搬する二組に分かれます。短足で走りが苦手だった私は、ホークの役を引き受けたのが大間違いでした。馬ふんの頂上は熱気と悪臭でまさに地獄の釜の様。周囲を見渡すと専攻生は風上に陣取り、悪臭から逃れる術を心得ています。本科生の手前、今更降りる訳にもいかず、吐き気こらえながら実習を終え、精根尽きて食堂に入ると、私が発する臭気に耐え兼ね皆から遠巻きに敬遠されました。

昭和45年当時の馬ふん振りの様子
昭和45年当時の馬ふん振りの様子
堆肥熱で立ち上る湯気(昭和58年)
堆肥熱で立ち上る湯気(昭和58年)

しかし、誰もが敬遠するこの馬ふん振りですが、率先して先陣を切れば生徒たちは必ずついてきてくれる実習です。若手社員たちは指揮官として大声を張り上げ、大いにエネルギーを発散したものです。この馬ふん振りの実習では、熱中症になったり、ホークで足を怪我したりすることもありましたが、これを経験した60歳以上のOBがいまだ語り草にする気持ちが私にもよく分かります。現在はコンポスト堆肥を振りますが、当時のそれと較べると天国と地獄の差に思えます。

追肥・中耕は実力差がもろに出る

7月下旬から9月は、播種、育苗、整地、定植、追肥・中耕除草、薬散実習と続いて行きます。追肥・中耕は全て人力で行っていました。まずは筋切りで畝肩を切り、速効性肥料を施し、通路の土を株もとに寄せるのですが、これも専攻生と競争していました。一番早く、しかもきれいに株もとに土寄せした者が勝者であり現場のヒーローになれますが、気力・体力・スピード・平鍬技術のすべてが欠かせない実力だけがすべての実習です。

入社5年目を迎えた私は、追肥・中耕に自信をもっていました。この実習中、30回専攻生だったN君がおもむろに私の横に入ってきて競いだします。25m畝の半分まではお互いにいい勝負でしたが、残り10mでN君が一気にスパートをかけ競い勝ちました。私がやっとの思いで中耕して顔を上げると、無口な彼が表情を変えずに私に一言。
「福嶋さん、通路が少し曲がっていますね」
言われて彼の畝を見ると通路もまっすぐ完璧に仕上がっています。私の通路は確かに少し曲がっていて内心グゥの音も出ない。平成27年の青葉会総会でN君と40年振りに再会しましたが、この時のことを話すと彼も憶えていて、いい大人同士が大笑いしたものです。

中耕作業風景(昭和58年)
中耕実習風景(昭和58年)

平成元年に北海道長沼の農場に転勤するまで、滋賀県研究農場で毎年これら実習を繰り返していました。専攻生たちと競い合い一緒に汗をかいたことが、彼らが卒業後40年たった今でも当時のままの気持ちでお互い通じ合えることに驚かされます。

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