第6回

2018/07/20掲載

2.夏の育苗は網室と葉菜の連合軍!

移植作業の風景(1971年ごろ)。
移植作業の風景(1971年ごろ)。

私の入社当時と今日では育苗の仕方に大きな違いがあります。当時、キャベツ類は露地育苗が主体で、育苗面積は50a以上に及びます。そのため7月上旬から9月上旬の育苗期間は試験採種を行う網室のあった検定管理科と品種育成を行う葉菜科は合併し、社員総数15名程度の大所帯を編成しこれに当たります。膨大な系統数と育苗面積の十字花科野菜を合同で育苗管理し、対処していました。ここでは私の入社当時から進化していく育苗の変遷を振り返りご紹介しておきましょう。

2回移植時代

1970年当時のキャベツ類はすべて2回移植を行う仮植育苗で、本葉8〜9枚の大苗定植でした。7月20日、25日、8月5日がそれぞれキャベツ、ブロッコリー、カリフラワーの基本播種日となります。葉菜科のガラス温室に播種箱を準備しタネをまき、本葉1.5枚時に当時10-1、2、3号圃場にあった移植床へ12cm間隔に1回目の移植をします。約2週間後に今度は8-1、2、3号圃場の育苗床へ2回目の移植。本葉8〜9枚の大苗に仕上がったらようやく本圃への定植となります。

当時の圃場は石コロだらけで排水不良だったため立枯れ症状が頻発し、その対応に苦慮していました。仮植床はできるだけ高畝とし排水を図ることが整地仕上げのポイントでした。移植後は潅水のみで雨よけビニールは張りません。畝の上に物干し竿の長い竹を2列に並べその上から直かにコモを被せることで日中の萎れを防ぎ、夕方にはずしていました。活着するまでの1週間、コモ掛けと潅水管理は大変な労力でした。夕立にあう度に薬散と濡れたコモ干しの余分な仕事もこれに加わるのです。とにかく面積が広いですからたいへんでした。

1972年当時の研究農場網室。
1972年当時の研究農場網室。
1968年当時のキャベツ圃場。ごろ石が多く苦労の多い土質だった。
1968年当時のキャベツ圃場。ごろ石が多く苦労の多い土質だった。

1回移植時代

入社後2回移植を2〜3年経験したのち、播種箱で本葉1.5枚に育苗後、育苗床へ1回移植する方法へ切り替えました。夕立による立枯れ病を防ぐため雨よけビニールトンネル育苗とし、晴天時は11〜15時まで裾を上げ、風通しを確保した上で遮光にコモを掛けます。毎日の潅水、薬散、ビニール裾上げ、コモ被覆のため社員3名、専攻生2名は常に張付け状態でしたが、2回移植育苗より育苗面積は半減し集約管理が可能となりました。

苗床へのタネまき風景(1974年ごろ)
苗床へのタネまき風景(1974年ごろ)

無移植時代

苗床へのタネまき風景(1974年ごろ)
トンネル設営作業。

その後、産地ではさらなる労力削減が進み、幼苗機械化定植時代を迎えました。農場でも産地の流れに対応するため無移植育苗に取り組みます。7月上旬、葉菜科網室の後ろ30aほどをすべて直播育苗床とし1.5×25mの畝に長さ90cmの短冊の播種床を作り、キャベツ、ブロッコリー、カリフラワーを直まきします。播種後は乾燥防止のもみ殻を散布し、夕立と強光を避けるためビニール、寒冷紗の二重トンネルを施すよう改良しました。

本葉1.5枚で間引き、25日育苗で本圃に定植です。仮植育苗とは異なり育苗面積は激減し管理はぐんと楽になりました。定植の前日はブロッキング(※)を実施、十分潅水し新根の発生を促し定植します。この無移植育苗は平成を迎えセル育苗へ切り替えるまで続きました。
現在は改良を重ねたセル育苗技術で一括管理され、完璧な苗質で仕立てられています。

※育苗の後期に、株間に包丁などで切れ目を入れて断根する作業をいう。(断根・だんこん)。 苗の生育を一時的に鈍らせたり、苗の根張りをよくするために行われる。

寄らば大樹の陰

入社2年目、育苗当番でのことです。播種箱や移植床にと多方面の管理に振り回されていました。その上検定管理と葉菜科の合同育苗でしたから船頭多くして船足遅くの例え通り。私以外は全て上司ですから「潅水が遅れているから早くやれ」と言われ潅水していると次の人がきて、「あほっ!誰が潅水やれと言った!早すぎる」と正反対の指示で怒られます。一体全体どうすればいいのか“混乱の極み“を経験しました。そこで考えたのが、「辻本さん(葉菜科長)に言われてまーす!」でした。この一言はまさに金科玉条、誰も反論してきません。素直だった青年が2年目にして徐々に要領をおぼえ、先輩たちのように窮地を脱する方便を身につけ(腹黒く)成長していくのです。

回顧録TOPへ戻る